『フー・アー・ユー vol.1』では自分で自分のタイプを決めてしまうことについてのハナシを書きましたが、【他人にとっての自分のタイプ】というのも存在しますよね。
先日、最近日本では自己紹介で『16 Personality』のタイプを伝えるという情報を耳にしました。
※16 personality
認知パターンを理解するMBTIという性格検査をもとに、診断者の心理的傾向や人柄を詳しく知ることができる性格診断。全部で16のタイプが存在する。
実際にどれくらいの人がやっているかなどのデータは一旦置いといて、最初に感じたのは、なんとも言えない厚かましさ。
ワタシ/ボクはこういうタイプです、と伝えることで、相手に「だから○○してください」もしくは「○○しないでください」という【自分に対する関り方】の期待までもを暗に伝えているように感じました。
言葉を交わすことで互いの理解を深めるというより、共通理解(この場合『16 Personality』)をベースに相手を理解することが求められる環境や空気。
いわゆるハイコンテクスト文化と言われる日本のコミュニケーションの特徴がモロに出ている気がします。
※ハイコンテクスト文化
コミュニケーションにおいて言葉による説明が少なく、言葉以外の表現-表情・声のトーン・体の動きなど-に頼る部分が大きい。共通の知識や認識、カルチャーを前提として会話が進むことが多く、行間を読む力なども求められる。
自己紹介で『16 Personality』のタイプを伝えることがどれほどの重要度を持っているか、どれだけの人がしているか、どの程度真剣に捉えられているかは分かりません。
合コンでお決まりの王様ゲームや古今東西みたいなお遊びとして使われているだけかもしれませんし、誰かと初めて会う場では必要不可欠な情報とされているかもしれません。
どちらにせよ、「自分はこういう人間です」ということを楽して伝えていることに変わりはないし、やっぱり、その情報を元に相手が自分を理解してくれたり、特別な対応を考えてくれたりすることを密かに期待する態度が、そこには隠れているような気がします。
使ったことはありませんが、今どきのマッチングアプリというのもおそらくタイプやカテゴリーというものを存分に活用しているんじゃないですか?知りませんが。
仕事、年齢、性格、趣味、休日の過ごし方、好きな動物、好きな食べ物(想像なので間違っているかもしれません)といった情報を元に、利用者を大まかなタイプとかカテゴリーに振り分け、そこからさらに各情報の一致度なんかを計算し、マッチングしてる度合いを数値もしくは他の指標とかで表しているんじゃないですか?知りませんが。
まあよく知りませんが、とにかく、【知り合う】という行為においてなるべく無駄がないように設計されているんじゃないですか?
個人的には、自分のことを理解してほしいのなら努力をしようよ、と思います。
努力とは、自分の内側にあるものを自分の言葉で相手に伝えることです。
上手に言葉を使う必要も語彙力の高さも必要ないと思います。話下手だろうが、どれだけ時間がかかろうが、自分の言葉を使って相手と接することが大切なんじゃないでしょうか。
ただ、自分のことを相手に理解してもらいたい、という願いはとても虚しいものです。
もう充分に理解していると思っている相手のことを、実はぜんぜん理解していなかったことに愕然とすることってありますよね。
その逆もまた然り。
言葉を尽くしてコミュニケーションを取ることはしんどいし、時間もかかるし、面倒くさいです。その上、存分に時間と言葉を尽くしたからといって、自分のことを理解してもらえる保証なんてありません。仮に死ぬまで続けたって、そんな瞬間は来ないかもしれないのです。
常に時間に追われる生活の中では、合理的な判断をし、効率良く過ごす方が賢明です。
時間も労力もかかる上に成功する保証もないことをするなんて、ばかげていると思われるでしょう。無駄を省いて効率良く知り合っていく方が、時間と労力だけでなく、衝突やすれ違いから来るストレスも減らせるかもしれません。
それでもボクは、このとてつもなく面倒くさいことがとてつもなく大切なことのような気がします。
将来、自分が死ぬときのことを考えてみます。
自分が思い出すのは誰なのか。自分の死について知ってくれる人は誰なのか。
自分と関わりのあった人が死ぬときのことを考えてみます。
その人が思い出すのは誰なのか。自分はその人の訃報を知らされるのか。
ボクは、互いに思い出し合い、互いの訃報を知らされ合うような、そんな関係が好きで、そういうことができる【知り方】をしたいと思っています。
そのためには、時間も労力もストレスもまるっと背負わなければならないような、面倒くさくてしんどい【知り方】が必要なんじゃないかと思っています。
ただし、相手をちゃんと知ろうと思って関わっていると
なんだこいつ、救いようないな…
いやだなぁ、この人、全身の毛穴から承認欲求吹き出てる…
あらまァ、厄介な歳の取り方してんな…
といったふうにこちらをしんどくさせてくる強者(つわもの)に出会ってしまうという、嬉しくないオマケが付いてくることもあります。
そんなオマケも含めて人生っておもしろい、ということなんでしょうね、きっと。そういうことにしておきましょう。知りませんが。
あーつくづく、人生って修行。
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と、最近の日本事情への持論をこねくり回してはいますが、ボクにはひとつ心配事があります。それは、将来頑固ジジイになってしまうのではないか、ということです。
進化について行けないだけの時代遅れジジイなら問題はないかもしれません。置いてけぼりをくらって自分が困るだけ。不便さと戦うのみです。
問題は頑固さ。周囲に迎合しない、という表の自分を作り出す内側の精神です。
先日、日本にいる友だちと電話していた時のことです。謎のウイルスにやられてボロボロになっていた話をしていた際、「病院は行ったの?」と聞かれました。
「病院きらいだから行ってないよ」と答えると、「ちゃんと行きなよ」とたしなめられ、「でも病院って面倒くさいしなあ」と返すと、「うわ、将来面倒くさい頑固ジジイになりそう」
ここで自分のアンテナ的なものがピンッと反応したのが分かりました。
「あ、周りからの意見をなかなか聞こうとしない頑固ジジイってたまにいるよな」
そしてその直後、「えー病院ねえ、でもまだ身体は元気な気がするし、面倒くさいんだよねえ、だいじょぶだいじょぶ」と言っているジジイの姿が頭に浮かんできました。
周りにいる人はみな呆れ顔を通りこして憎み顔。「アンタのために言ってあげてるのになんなんその態度、こちとら暇じゃないねん、もう早よ逝ってまえ」と言わんばかり。
そうそして、そのジジイは将来のボクなのでした。
確固たる自我、なんて聞くと、なんか字面もかっこいいし、周りに流されないなんてステキ!とか思われそうだし、全面的に良いことのように思えます。
でも、確固たる自我を持つことは、人の意見や社会の変化といった周囲のモノを何も考えずに突っぱねることとは違いますよね。
ボクは頑固ジジイにはなりたくありません。でも、すごくなりそうで怖いです。
なので、ちゃんと周囲のモノや声に耳を傾けるという(人間として当然の)ことを、これからの人生でちょこちょこ思い出そうと決めました。
そして今後、もし初対面の人が自己紹介で『16 Personality』について触れたとしても、嫌な顔をせず、ひとまず受け入れ、自分がついて行けていない時代とちゃんと向き合うことにします。
本人にそんなつもりはないだろうけど、頑固ジジイ道まっしぐらの可能性もあったボクに不安を植え付けてくれた友だちに感謝しています。
ということで、早速ですが、先日妻に「アナタ、寺門ジモンと一緒だよ!」と言われたので、「いや、訳が分かりませんし、ぜんぜん似てないですね」と言って話を終わらす前にジモンさんのYouTubeチャンネルを見てみることにしました。
すると驚くことに、ネイチャージモン-ネイチャーを愛するということで本人がこの名前を名乗っているらしい-の考えていること、言っていることのほとんどが理解でき、ちょっとした感動すら覚えるほど自分の考えと近いものがありました。
そんなわけで、今のボクは寺門ジモンだと思ってくれて差し支えありません。
ネイチャーを愛する寺門ジモンの姿がどうしても頭に浮かばないという方。ぜひYoutubeでもご覧になってみてください。
どんな話だよ、と思った方、安心してください、ボクもそう思っています。
それではさようなら。
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