突然ですが、この度、昨年7月より続けておりました仕事を退職いたしましたことをご報告申し上げます。
2年間で2回無職、割と早いペースで無職を経験していると思われます。
さてはキミ、無職向いてるな?
こんなに早いペースで無職になる決断ができるのだから(前職は自分の意思で退職しました)、こう思う人もいるかもしれませんが、大間違いです。
朝起きてすぐに求人サイトをチェック、条件の良さそうな仕事を手当たり次第メモ、応募に必要な準備が整ったものから即応募、合間に新しい求人サイトに登録。
求職活動エンドレスループに囚われているうちに気づくと一日が終わっている、4月の後半からはそんな日々を過ごしていて、いろいろと考え過ぎて頭がちぎれるかと思いました。
かなりの数の毛細血管が切れたに違いありません。この1ヶ月で脳みそのシワは1000シワくらい増えたような気がします。
もう一生求職活動したくないや、というのが1ヶ月間の無職を終えての感想です。
当時の具体的な状況や心境を事細かに記すことはしませんが、そういった諸々について、多くの毛細血管を犠牲にして万遍なく思考を巡らしたことによって、改めて直面した事実があります。
今の時代、完全に独立した個人として存在 & 生活している人間なんていないので、自分の言葉や行動はすべて--良くも悪くも--自分以外の他の人に影響を与えている
という事実です。
好き勝手生きてちゃいかんよ、と、たしなめられた気持ちになりました。でも、(人間として持っておくべき道徳や倫理の一線を超えない範囲で)好き勝手に生きてもええじゃないかという気持ちもあります。
【因果応報】という言葉を思い出しました。
現代では戒めの言葉として使われることが多いので、「悪い行いをするとそれが自分に返ってくる」という意味だと思われがちですが、本来は「自分の行いは自分に返ってくる」ことを意味します。なので、行いが良かろうが悪かろうがその報いは自分に返ってきます。
さてここで仏教。仏教様の御通り。ガウタマ・シッダールタ(後のブッダ)が死ぬほど苦しんで悟りを開いたのが紀元前5世紀ごろ。
開いちゃった悟りの元で生まれた教えの一つがこの因果応報。仏教においては「行った行動は必ずなんらかの結果や報酬をもたらす」という意味で用いられていました。
紀元前5世紀まで溯ってみると、もはや行動の善し悪しにも触れていません。因果応報の根本にあるのは、「行動によって何も変わらないことはない」、言いかえれば「行動によって必ず何かが変わる」というとてもシンプルな意味なのかもしれません。
しかし、これこそが問題です。自分の行動は「何か」を変えてしまうのです。
「何か」はその場の空気かもしれないし、貯金額かもしれないし、コレステロール値かもしれないし、上司の機嫌かもしれません。
「何か」は他人の人生かもしれません。
事あるごとに自分が他人の人生を大きく変えているなどとは思っていません。ただ、そういう可能性があるという事実は、ちょいと恐ろしすぎませんかと思うわけです。
こんな重大な事実は背負いきれない!知るか!!と素知らぬ顔で生きていければ楽なのでしょうが、他人と関わらずに生きていくことはほとんど不可能ですし、現実はそうとはいきません。
また他人と言っても、自分の人生には登場しない赤の他人と、家族、友人、パートナーといった自分により近くて存在感の大きい他人がいます。
自分の行動は他人の人生を変えてしまうかも、と意識したとき、その人生が前者の場合と後者の場合では意識の重みがぜんぜん違います。自分の行動が放つ影響力も、後者の方がずっと強く受け取るでしょう。
自分の人生は他人の人生と溶け合っていると再認識したことで、「人生についてどの程度まで考えてどんな行動を起こせばいいのだろう」という、ただでさえ手に余る問題について、他人の人生のことも--しかも細部まで--考える必要が出てきたわけです。
天晴れ無職返り咲きを果たした当時、ボクの思考はぐっちゃぐちゃでした。収集がつかんつかん。
まあでも収集がつくわけないんです。なぜなら、仕事探しをする上で人生についても考えているからです。しかも他人の人生もまぜこぜにして。
「コレだ!」という絶対的な答えなんてあるはずがないのです。答えは人の数だけある、そう考えれば自分の辿り着いた考えを答えとすることもできますが、その答えはいつか変わるかもしれず、あくまで暫定的な答えです。と、こう思ってしまったら最後、でも今必要なのは何かしらの答えなんだなー、あれれ、スタート地点に戻っています。
堂々、堂々巡り。
でも時間はそんなこと無視してオラオラと背中を押してくるし、ウンウン唸っているその瞬間も生活が続いています。だからまずは行動を起こすことにしました。これが答えのない問題を解決するとは思いません。ただ何もしないよりはマシです。因果応報、何かが変わるはずだから。
と、なんとか頭の整理を終えかけていたころ、これはある種答えなのでは?と思わせてくれる出来事がありました。
かれこれ10年以上の付き合いになる友人が1年ほど前にポッドキャストを始めたのですが、彼女がとある回で【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉を使っていました。
【ネガティブ・ケイパビリティ】とは、どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力を指す言葉で、この概念はイギリスの詩人ジョン・キーツが弟に宛てた手紙の中で1度だけ使ったとされています。
この概念と対の意味を持つ【ポジティブ・ケイパビリティ】は、不確かさや不思議さ、懐疑の中から迅速に脱出しようとする志向性、または力を指します。もう少し噛みくだいて言うと、分からないを分かるようにしていく問題解決能力のことです。
『現代はネットで調べれば知りたいことがすぐに知れるから、分からない、とか曖昧な状態で残しておけるものをあまり持っていない』
『分からないの中に居続ける忍耐が足りない』
彼女はこう言っていました。
はいまさに仰る通りです、と目から鱗でした。実際ボクはこの1ヶ月間「分からない」の中に居ることがしんどすぎて、1秒でも早くこの状況から抜け出すために必死でした。そしてその結果、脳の毛細血管が切れちゃいました。
彼女はそして、『もうちょっとだらだら考えたりだらだら話したりすることが許容されてもいいよね』とも言っていました。
"分からないまま"に留まっておくことへの肯定は、人をとても楽な気持ちにさせてくれます。
そうしてちょっと楽な気持ちで"分からないまま"で居て、「分からないこと」について考えていくうち、「分かっていること」へ意識が向き、それが実は「分かったつもりになっていたこと」だと気づく場合もあるかもしれません。
ただしそれは、自分の間違いや未熟さを認めることになるので簡単ではないし、ましてや楽しいものでもないと思います。年を重ねるほどに難しくなっていくものだとも思います。
でも、悩んだり迷ったりしたとき、なかなか答えが出せない自分に否定的になるのではなく、自分の忍耐力、考え続けている姿勢の尊さを自覚することで、自分が楽になりたいが故に手近にある答えに飛びついたりなんかせず、焦らずに物事と向き合うことができ、確実に--1ミリくらいかもしれないけど--前に進めるのかもしれません。
(本当に本当にしんどくなったら滝行にでも参加して「寒い!痛い!帰りたい!」以外なんの感情も浮かばないよう一度脳をリセットしてみるのも一手であり一興)
そう考えると、次の仕事を探すだけのはずがいつの間にか【人生】という壮大なテーマに勝負を挑み、分からない地獄の中で発狂寸前でありつづけた今回の苦しみも、少しは意味があったのでは?そんなふうに思えます。
良い感性と素敵な雑さを引っさげ、遠い日本の地でなかなかにおもしろい人生を生きているであろう友人に感謝します。
さ、ということでですね、なんかごちゃごちゃ言ってんなこの人って感じなので、そろそろ黙らせていただきまして、お暇いたしまして、仕事に向かいます。
片道1時間半、道中トイレなし、四方を畑に囲まれたオフィスで2年ぶりの会社員。
さてさてどうなることやら。
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